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元WANDSの上杉昇、脱退真相や紆余曲折を告白!「“やらされてる感”がすごくありました」

元ロックバンド「WANDS」のボーカルで、現在はロックバンド「猫騙」やソロで活動中の上杉昇(44)が、人気絶頂のなかWANDSを脱退した真相やその後の紆余曲折などを、「週プレNEWS」のインタビューで答えている。

上杉はデビュー前、米国のハードロックバンド「Guns N’ Roses」などに憧れ、風貌も「鼻と耳のピアスをチェーンでつないでたような見た目」だったそうだが、いざオーディションに受かり、ロッカーとしての道が開けたかと思いきや「WANDS」がポップ路線だったことに戸惑いを覚えたようで…?

※上杉の苦悩も感じられる「PIECE OF MY SOUL」がベスト以上の名盤?
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WANDSといえば結成当時は上杉昇(44、ボーカル)、柴崎浩(46、ギター)、大島康祐(45、キーボード)の3人組ロックバンドで、シングル「寂しさは秋の色」(1991年12月4日発売)でデビューし、その後も「もっと強く抱きしめたなら」(1992年7月1日発売)や「時の扉」(1993年2月26日発売)、「世界が終るまでは…」(1994年6月8日発売)がミリオンセールスを記録したほか、女優で歌手の中山美穂(46)とのコラボ曲「世界中の誰よりきっと」(1992年10月28日発売、“中山美穂&WANDS”名義)や、当時所属していたレコード会社「ビーイング」の人気グループによるコラボ曲「果てしない夢を」(1993年6月9日発売、“ZYYG,REV,ZARD & WANDS featuring 長嶋茂雄”)などでもヒットを飛ばすなど、1990年代に人気を博したことで知られる。

だが上杉と柴崎は11枚目のシングル「WORST CRIME」(1996年2月26日発売)のリリースを最後にほどなくグループを脱退し、WANDSとしてわずか約4年超の活動に終止符を打った(2人は1997年に音楽ユニット「al.ni.co」を結成し、3枚のシングルをリリースしたが、こちらも2001年に解散。WANDS自体はボーカルに和久二郎を迎え、活動を継続するも2000年に解体)。

そんな上杉がWANDSを脱退した理由はプロデューサーサイドとの音楽性の違いと言われてきたが、最近その真相を「週プレNEWS」のインタビューで答えている。

上杉は若い頃からアメリカのハードロックバンド「Guns N’ Roses(ガンズ・アンド・ローゼズ)」や日本のへヴィメタルバンド「LOUDNESS(ラウドネス)」などに憧れ、当時の風貌も「鼻と耳のピアスをチェーンでつないでたような見た目」(情報元:週プレNEWS)だったそうだが、いざオーディションに受かり、ロッカーとしての道が開けたかと思いきや、「WANDS」はロックとはいえポップ路線であり、そのことに戸惑いを覚えた彼は当時から“やらされてる感”を覚えていたようで…?

(以下引用)

―デビュー前のオーディション時もそういった風貌で?

上杉 もちろん。で、オーディションに受かって、プロデューサーからは「ロックバンドでデビューさせてやる」って言われてたから、自分のロッカーとしての道が開けた…と思って飛びついたんですけど、フタを開けてみたら、ロックはロックでもデジタル系のポップ路線で…。

まさか鼻ピにチェーンつけてたような男に『もっと強く抱きしめたなら』みたいな爽やかな曲を歌わせるなんて思ってもみなかったから(苦笑)。

だから「話が違うだろ」って気持ちはWANDSの最初からあった。あの“アイドル時代”を振り返ると「自分がやりたいのはコレじゃなかったのに」って気持ちがやっぱり強い。

(引用元:週プレNEWS)

上杉が初期の「WANDS」時代を「アイドル時代」と評しているように、自身が思い描いていたロックテイストとは「最初から」大きな開きがあったことをうかがわせる。

確かに彼は大ヒット当時から突き抜けるように爽快な歌声を響かせる一方で、テレビなどでみせるその表情はどことなく暗く、感情の入っていない印象も受けた。

上杉のそうした淡々とした歌いっぷりは緊張感によるものも多分にあったかもしれないが、そもそも自身の生き様を表現するのがロック歌手なのだとすれば、自分の本意ではない音楽を歌っていたとされる当時の行為は、大きな力によって踊らされている操り人形のように思えたか、そうしたものに対するささやかな抵抗が無表情という形となり表出していたかのようにも今となっては思える。

とはいえ「WANDS」のデビュー曲からの作詞はいずれも上杉であり、それがミリオンヒットなどの形で評価されたことに対してはある種のポップの要素から得たものも大きかったと思われる。

だが上杉にとって、いわゆる“ビジネスライク”で売れる音楽作りは彼の感情のはけ口になることはなかったようで、やがて彼の詞に顕在化していったようで…?

(以下引用)

―しかし、本当にやりたい音楽を押し殺し続けることはできたんですか?

上杉 いや、さすがにずっとはムリでした。『世界が終るまでは…』の次に出したシングルが『Secret Night~It’s My Treat~』という曲で、これは最初、WANDS用に作られた曲じゃなかったんです。けど、初めて曲を聴いた時、「これだ!」って思って。

プロデューサーにどうしてもこの曲を歌いたいって直談判して、初めてワガママを押し通したって感じでしたね。それに、それから出したシングル2曲は作詞だけじゃなくて作曲もメンバー内でやらせてもらえて。少しずつですけど、自分のやりたい音楽をやれてたって感覚だったんですよ。

(引用元:週プレNEWS)

7枚目のシングル「Jumpin’ Jack Boy」(1993年11月17日発売)も直訳すれば“操り人形の少年”と相当に意味深ですし、8枚目のシングル「世界が終るまでは…」(1994年6月8日発売)も人気アニメ「SLAM DUNK(スラムダンク)(第2期)」(テレビ朝日系)のエンディングテーマだっただけにどのようにも解釈できるよう多少オブラートに包んでいるようにはみえるが、出だしの詞が「大都会に僕はもう一人で 投げ捨てられた空きカンのようだ」で入るくらいだから、こちらも当時の状況に重ね合わせた上での、上杉の相当な失望感、喪失感をうかがわせる。

そして上記の通り9枚目のシングル「Secret Night~It’s My Treat~」(1995年2月13日発売)、10枚目のシングル「Same Side」(1995年12月4日発売)、11枚目のシングル「WORST CRIME」(1996年2月26日発売)なども、デビュー当時とは明らかに毛色が違い、メッセージ色も強く、この頃から上杉のロックな一面が吐露されていると感じる。

さらに7~9枚目のシングルを含めた3枚目のオリジナルアルバム「PIECE OF MY SOUL」(1995年4月24日発売)は、アルバム曲も含め当時の上杉の思いが凝縮された名盤だと思いますし、個人的におすすめしたい一枚だ。

アルバム「PIECE OF MY SOUL」では作曲にギターの柴崎や、当時キーボードを務めた木村真也が担当した楽曲も含まれており、上杉の詞からも彼の思いの丈を感じ取ることができるが、上杉と柴崎の在籍した「WANDS」がリリースしたオリジナルアルバムとしてはこれが最後の一枚でもある。

せっかく「自分のやりたい音楽をやれてた」という感覚を持てるようになったにもかかわらず、上杉はなぜこの後「WANDS」からの脱退を決断してしまったのだろうか…?

(以下引用)

上杉 実は、結果的にラストシングルになった曲の、その次のシングル曲の候補もあったんです。

ただ、プロデューサーが持ってきたその曲は、元のポップ路線だったんで…これはもう、僕はWANDSにはいられないなって。

(引用元:週プレNEWS

上記で指す「WANDS」のラストシングルは11枚目の「WORST CRIME」(1996年2月26日発売)にあたると思われるが、その後にもシングル候補の曲はあったという。

だがその曲はおそらく詞は別として、楽曲はメンバーが作ったものではなくプロデューサー側から提供されたものだった可能性もあり、それがポップ路線だったことで、双方の間に再び方向性のズレが生じてしまったとも考えられる。

WANDSのデビューからすでに25年が経つが、わずか4年超の活躍が思い出に残っている人も少なくないのでは。

今では独自の音楽性で前に進む上杉だが、彼はやりたいことをただ黙々と突き詰めようとしているに過ぎないのでしょうし、その過程で当時は思わぬ形で「WANDS」での活動が舞い込み、そこで得たものにも大きな感謝をしていると思われるが、惜しくも目指すフィールドが異なっていたことが現在の活動へと舵を切ることにつながっているようだ。

大人になれば丸くなってしまったり、当時の気概を忘れてしまうロッカーもいるかもしれないが、上杉の持つ繊細さや迷いは今後もロッカーとして走り続けてゆける原動力になっているようにも感じられる。

その場が「WANDS」でなかったことを憂うファンも少なからず多いのかもしれないが、今は「WANDS時代のイメージをブッ壊すつもり」だという上杉の今後の活躍に注目したいと思う。

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